司馬遼太郎が考えたこと 7 名言集

司馬遼太郎が考えたこと〈7〉エッセイ 1973.2~1974.9 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈7〉エッセイ 1973.2~1974.9 (新潮文庫)

グッときた文章をまとめてみます。


「インド、中国、朝鮮、東南アジアにみられる、
いわゆるアジア的停頓というのは、わたくしは日本史には
あてはまらないと思うのです。」
他のアジア各国と日本は、国家の性質がまったく
違うのではないか、という司馬遼太郎の考え。
言われてみれば確かに、とうなずけます。


「ときにふと、江戸期が暗く、戦国期が真夏の昼のように
明るかったように思ったりします」


「小説を書くという作業は、自分自身の中に
普遍的人間が厳然と住んでいて、
いかに奇妙な心理や行動を表現しようとも、
本来普遍性から外れることがないという、
いわば証明不要の公理のようなものを信ずる意外に
書けるものではない。」


「私はどうにも、自分自身の生活や行動や心理については、
それを記録して他人に見せるだけの話題価値を見出せない
人間なのである。たとえば私は自分の本の裏に
自分の略歴が出ているだけですぐ目を伏せたくなるほどに
不愉快だし、自分の本名を活字で見るだけでも、
羞恥と説明しがたい憎悪に似た感情をもってしまう。
そういう人間が、たとえ座談の場合でも自分自身の
内面もしくは外面を語らねばならないというような
表現行動に、とても参加できない。そういう意味では、
私は作家であることの本来的なものが欠けているように思う。」
自分は、エッセイを書くのが本当に苦手だ、という
司馬遼太郎の自己分析。


「ヤクザをみますと、日本のなんとか組でも
アメリカのギャングでも、非常に忠誠心の強い子分がいて、
親分の命令とか組のためにということで、
理屈を越えて働くことがあるでしょう。
そういうことができる社会とできない社会があるようですね。
できる社会が早く国家を持つことができたんじゃないですか。」


「国家は必要悪ですね。必要かもしれないけれど、
理想的にいえばやがて消えてゆくものだろうと思います。」


「私はだいたい、ナルシシズムというのは
自分の敵だと思っている人間なんですが、
一体ナルシシズムが敵かどうか、特に作家、
あるいは詩人にとって敵かどうかは非常に疑問なところで、
おうおうにして味方である場合も多いんですよ。」


「私はべつに食べることに熱心なほうではないが、
食べものが豊富でやすくて旨いという土地にゆくことは、
旅行の楽しみの一つだと思っている。」
ですよねー。


「私はいま大阪の東郊に住んでいる。
 布施という場末の町だが、この町にも参宮街道が走っている。
大阪に近い高井田という所に、室町のころは宿場があった。
つぎは御厨という所までゆかねば宿場はない。
ところが室町のある時期ごろから伊勢詣りへゆく者の往来が
はげしくなり、非公認のようなかたちでその中間に
簡易宿場のようなものができた。当時、そういうヤドのことを
伏屋といったらしい。伏屋が布施になったという説もあって、
要するに私のいまの居住地も、伊勢詣りのおかげで
室町期に集落をなすようになったのである。」
大阪府東大阪市は布施の成り立ちについて。
小学校の地域学習で習いそうなエピソードですね。


「かれの生涯は独創というものがほとんどなかった。
自分の才能を、かれほど信ずることを怖れた人物は
めずらしく、しかもそのことがそのまま
成功につながってしまったという例も、稀有である。
そういう意味からいえば、なまなかな天才よりも、
かれはよほど変な人間であったにちがいない。」
司馬遼太郎の家康考。確かに、信長、秀吉とは
まったく異質の人間であることは疑いようのない事実です。


「指摘を鋭くするのは、簡単である。
相手の欠陥だけを、千枚通しで突くようにして衝けばいい。」
常に心にとどめておきたい一言。


「『奇態(けったい)な言葉に取り憑かれると、淋しいもんやな。
この淋しさは、ひとにはわからんやろな』」
奇態な楽器(バスクラ)に取り憑かれた人間も、やはり淋しいものです。
そしてこの淋しさは、ひとにはわからないでしょう。


「世界最古の商業民族だからね、
諸事商業的損得でわりきってくる。アメリカや西ドイツや
中国人の商人ならこっちの商標で信用してくれて
取引も簡単だが、アラブ人はそのつど粘りのつよい
交渉を仕掛けてくる、それだけだよ、明快だよ、
あの連中はいいやつらだよ、といった。」
アラブ人を端的にあらわしたエピソード。


「『世に活物(いきもの)たるもの、皆衆生(しゅじょう)なれば、
いづれ上下とも定め難し。今世の活物にては、
唯(た)だ我れを以て最上とすべし』」
竜馬が手帳に書き残したと言うメモ。
長曾我部氏の一領具足制度から、土佐の自由民権運動
下地は固まっていたと見る司馬遼太郎。確かに
画期的かつ説得力のある意見です。
それにしても、凄みのある言葉。


「若さというのは高貴である場合もありうるが、
そのときどきの文明の段階が排泄した膿である場合もありうる。
当然、同質の膿は、同時代人であるわれわれにもある。」
心にとどめておきたい一言です。


「このあたりで、私がかれを殴らなかったら、
私のほうが人でなしかもしれない。」
この一言が、自分の中でブレイクしましたね。
なんでもない一言みたいですが、
日本語の表現力なのか、司馬遼太郎の表現力なのか、
とにかく「表現力」の三文字を強く感じました。
なんと表現すればいいのだろう、この気持ちは。強い感動。


「『たれそれは、いい役者です』
 と彼が語るとき、愛情と決断が秘められている。
愛情をもたなければ批評などできるものではない。
その役者を、古今東西の大名優と比較して批評すれば
酷評しかできないが、酷評というのは批判を
していないということと同意義である。
日本のいまの現実の中でよりましであるというのが
彼の『いい役者です』ということであり、
そう決めてしまう経過に、よく考えたすえの
決断が秘められている。」
「酷評というのは批判をしていないということと同意義である。」
の、割に氏の芥川賞の選評は、かなり辛口な気もしますが。(汗
しかし、これもまたいい言葉。


「ところがやはり、芝居というのはおそろしいものですね。
眠っていても自分のつくったセリフが耳の中に響いてきて
飛びおきるときがありました。小説を書いているぶんには、
そんなことは一度もないんですよ。芝居の場合、
自分で発声したがためにそうなってしまうのか、
それともまた違う要素をもっているのか、
いまでもよくわからないんですけれどもね。」


「黄塵万丈の熱鬧(ねっとう)の巷でかえって幽邃(ゆうすい)の山水を想う
というのは、中国の詩人の気どりでもなんでもなく、
心理学的にはごくあたりまえの願望現象ではないかと思ったりした。」


司馬遼太郎氏の小説を読んでいると、
不意に歴史がわかったような気がしてくる。」
亀井俊明氏のひとこと。
司馬遼太郎の小説を端的に、的確に表した一言。