司馬遼太郎が考えたこと 7

司馬遼太郎が考えたこと〈7〉エッセイ 1973.2~1974.9 (新潮文庫)

司馬遼太郎が考えたこと〈7〉エッセイ 1973.2~1974.9 (新潮文庫)

えーっと、「考えたこと」シリーズでは
始めてではないでしょうか、書評を書きたいと思います。


ぶっちゃけた話をすると、「司馬遼太郎が考えたこと」シリーズに
最初、手をつけたときは、「どうしてこんなものに手をつけたのだ」と
強い後悔を覚えました。
というのは文章が、稚拙とは言わないまでも、
これがあの珠玉の名作家が書いた文章か、と疑いたくなるほど、
魅力に欠けた、平坦でつまらない文章だったからです。
ところが、歳を重ねるにつれて、だんだん文章がうまくなっていくんですね。
人をひきつける、魅了する文章。今までにない、けれでも奇をてらったわけではない
司馬史観」と呼ばれる歴史史観。アジアや世界を冷静に見据えたものの味方。
それでついに私に「これは書評を書かざるを得まい」と思わせた第七巻。
今日は、いくつか、おっ、と思わせた文章(「考えたこと」はオムニバス形式です。)を
中心に、この本について語りたいと思います。


まず、印象に残ったのは「赤尾谷で思ったこと」でしょうか。
人間と言うものの本質について、歴史を通して触れています。
「黒鍬者」も上に同じ。


ベトナム――断片的に」はベトナムの成り立ちと現状、
民族性や置かれた環境などから、
南ベトナム政権は成りゆかなくなる、
共産主義こそベトナムの選ぶべき唯一の道ではないか。
と主張する司馬遼太郎、そのベトナムのいざこざも「歴史」となった今、
「答え合わせ」をしてみると、南ベトナムが立ち行かなくなった点は
大正解ですが、世界中で崩壊した結果から、
共産主義の点は間違いだったように思います。
先を見通すのは、難しい。


明治維新前後における朝鮮・日本・中国の元首の呼称について」は
天皇」の外交上の呼称について、「皇帝(Emperor)」というのは
適切ではない、できれば変えるべきだ、と言う主張がなされます。
なぜなら中国にとって「皇帝」とは「天から命ぜられた世界秩序の中心の人。
漢民族だけでなく諸民族を治める権利と義務をもった地上唯一の人」で、
朝鮮も、そういう中国の「皇帝観」に配慮して、「王」とした、
そういう歴史を踏まえれば、日本の天皇が「皇帝」と
称するのはどうか、というのです。


でもこれって結局、中国のもつ「中華中心主義」や韓国の「小中華思想」に
つながるのではないでしょうか。
世界レベルではまったく通用し得ないこれらの主義、思想を
考慮して「皇帝」とすべできはないというのはどうでしょう。
文中にあった、
天皇そのものを考えると「皇帝」という呼称は適切ではない、という
主張には応分の説得力がありましたが、
中韓の思想や主義、歴史を考慮すると、という主張には一片の説得力も
感じられませんでした。
先述の「ベトナム――断片的に」にしたって、共産主義マンセーするばかりで、
言論を始めとする、国民への様々な統制には一切触れずじまい。
結果、破綻をきたす原因となった、共産主義の公平性のデメリットにも触れずじまい。
この件に限らず、司馬遼太郎が中国や朝鮮に甘い、という傾向があることは
否定できないように思います。


現代での十二分に通用するいいテーマですが、その主張には
疑問を抱かずにはおれませんでした。


「倭の印象」も上に同じ。
倭という漢字の差別性に触れつつも、
「私はこどものころから、倭という言葉も呼称も気に入っていて、
ワという音で読もうがヤマトとかシズとかという訓で読もうが、好きだった。」
と語ったり、朝鮮人が、日本の衣冠束帯を
「礼儀を教えてくれと頼まれたから教えたが、あれは葬式の着物だ」と
バカにする伝説を「民族的規模のユーモア」とよび、
その伝説を「実証的ではない」としながらも、
「実証なるものが小賢しくて興を醒ますほど」の
「巨大な諧謔と皮肉のカタマリ」であると語り、
さらに日本人の朝鮮における蔑称である倭奴(ウェノム)という言葉を連発して、
自身が朝鮮人に、「その言葉は使わないでくれ」と
たしなめられたエピソードを披露しつつも
ウェノムウェノムとのたまうこの文章には、
並々ならぬ嫌悪感を覚えました。
文中のエピソードの数々自体は興味深いものでしたが、
それがことごとく、日本を見下したものであるにも関わらず、
文章からそれに対する憤りがまったく感じられないことに、
違和感を覚えました。好意的に見れば「冷静な目を失っていない」
ことになるのでしょうが、それでもこれだけの
エピソードを通じてなお、憤りや憤怒をカケラも感じさせない
この文章には、何か違う、と感じざるを得ませんでした。
そもそも、この文章の結論である、
「日本人には、越えられない国民性という壁があるのではないか」
という主張に至るまでに、先述の日本をバカにし尽くした
エピソードや文章は、果たして必要だったのか、
むしろ蛇足もいいところだったのではないかと思わざるを得ませんでした。


服従について――小野田寛郎氏の帰還」は面白い読み物でした。
終戦後29年にわたって、比国のルバング島
密林に潜み、戦い続けた小野田寛郎が帰国した際に書かれたもの。
小野田を「自分を抽象化するということをやり遂げた人間」ととらえ、
前年に見つけられた横井庄一との差異や、
異質の人間であることを主張します。
画期的な小野田寛郎観であるように思いました。


「土佐の高知で」では、
土佐という土地の面白さについて触れています。


「若い訪問客」は、ある日、アポ無しで訪れた筆者の
親戚である若者、与一氏(仮名)の語りにつき合わさせられた話。
「このあたりで、私がかれを殴らなかったら、
私のほうが人でなしかもしれない。」の名文を残しました。
「若さというのは高貴である場合もありうるが、
そのときどきの文明の段階が排泄した膿である場合もありうる。
当然、同質の膿は、同時代人であるわれわれにもある。」
という考えを基礎に、与一氏のハチャメチャな熱弁の
相手をすることを通して、70年代の若者、
さらにその若者を通して、人々の「膿」を見通さんとした文章。
いろいろと考えさせられました。


「山姥の家――人間を私有すること」は
「蛮人」を自称するある女の半生を語ったエッセイ。
偏屈者の「蛮人」が、その名にふさわしい
ワイルドな生活をしていたころから、息子が生まれ、
その息子が独立し、生きがいを失い、かつての姿を
失ったところまでを描いた半生記。
読み物としては、この本の中で一番面白かったのではないでしょうか。


しかし何より感銘を受けたのが、
アメリカ文学者の亀井俊介が書いた後付の解説、
司馬遼太郎の美学」。
史実を踏まえた、旧来の(多分に創作が多い)時代小説を
越えた、むしろ伝記に近い新しい小説のジャンルが
支持されただけでなく、歴史のもつ凄惨さや怨念には触れず、
ロマンス性を重視した書き方が大きな魅力なのではないか、
ゆえにドロドロした本当の歴史とは、良くも悪くも
かけ離れているのかもしれない、という主張には心底納得させられました。
司馬遼太郎について語った文章は数多く読んできましたが、
この文章ほど適切に、的確に、鋭く語ったものもなかったのでは、と思いました。




参考リンク;
司馬遼太郎が考えたこと 7 名言集(AJEA_Blog)