女の一生

Wikipediaってホント何でも載ってますね。
山下奉文

大東亜戦争において第25軍司令官としてマレー作戦を指揮し
電撃戦を展開、敵軍から「マレーの虎」と呼ばれ恐れられた。
シンガポールの戦いの終結時に、ブキテマ高地にある
フォード自動車工場にてイギリス軍司令官
アーサー・パーシバル中将に「イエスかノーか」と
迫ったことで有名であるが、実際は「降伏する意思が
あるかどうかをまず伝えて欲しい」という趣旨の言葉が新聞等で
脚色されたという説もある。話が一人歩きしていることに対し
山下本人は気にしていたようで「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と、否定したという。


シンガポール攻略という大きな戦績をあげた山下だったが、
東条英機から嫌われたため満州に左遷され、
その後は大きな作戦を任される事はなかった。


後に敗色が濃厚となった1944年に第14方面軍司令官として
フィリピン戦局を指揮する事になり、ダグラス・マッカーサーらの
指揮する連合軍に勇戦するが、台湾沖航空戦での戦果の誤報
基づいて立案されたレイテ決戦を強いられた。
飛来する敵航空機がまったく減らないことから山下は大
本営発表を誤報と考えこの作戦に反対した。このとき山下の
部下には「マッカーサー参謀」とあだ名された名参謀堀栄三中佐がおり、
あらゆる困難を排して状況把握に成功している。
捕らえられた米軍パイロットの尋問からもそれは裏付けられたが、
南方軍総司令官寺内寿一は命令を変えなかった。海上を移動中に
輸送船の大半が撃沈され、レイテ決戦においては多くの兵力が海没した。
つづくルソン島決戦では、ルバング島小野田寛郎少尉からの「敵艦見ゆ」との
報告で、迅速な部隊配置に成功するが、徐々に兵力差で圧倒され完敗してしまった。
1945年9月3日フィリピンのバギオにて降伏する。

うーん、すばらしい軍人ですね。
敗戦の将を恫喝するようなことができるか」カコイイ!
ともすれば、太平洋戦争時の日本に優秀な軍人は
ただの一人も居ない、というような言われ方もされますが、
いないわけではなかったんですね。
ただそれを、うまく活用できる組織がなかっただけで。
うーむ、何か現代にも通ずる反省点を見出せる気がする…