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岩本徹三

岩本 徹三(いわもと てつぞう1916年-1955年)は、太平洋戦争中の
大日本帝国海軍の戦闘機搭乗員。島根県出身で、最終階級は中尉。
太平洋戦争時の日米パイロットの中で唯一200機を超える最終撃墜数
202機(自称)を有する撃墜王(エース・パイロット)であるが、
撃墜数については異論も多い。


平洋戦争開戦時は、第一航空艦隊所属の航空母艦「瑞鶴」乗り組みで、
真珠湾攻撃時は艦隊の上空直衛任務に就いた。その後母艦と共に
インド洋作戦、珊瑚海海戦と転戦後、内地に帰還、教官任務を経て
北千島防備にあたる第二八一航空隊に配属される。


米軍の本格的反攻が開始されて戦況が悪化してくると、一大航空消耗戦が
展開されていたラバウルに派遣され、ラバウル航空隊として
名高い第二〇四航空隊(後に第二五三航空隊に異動)の一員となる。
激しい戦いにより海軍のエース級搭乗員が次々と戦死する中、
岩本は編隊による優位高度からの一撃離脱戦法を駆使して
圧倒的な優勢を誇る米軍に対抗し、142機もの撃墜を報じている。


昭和19年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を
固めるためラバウルより撤収、トラック島において防空戦を行った後に
内地へ帰還する。内地では各航空隊を転々としつつ教官的役割を
果たすことが多かったが、戦闘にも多数参加しており、台湾沖航空戦、
フィリピン戦、沖縄戦での夜間単機強行偵察、戦艦「大和」復讐戦、
鹿屋基地上空でのB-29編隊単機迎撃など多大な戦果を挙げ続けた。>


岩本は理解ある上官からは厚い信頼を寄せられ、部下の下士官兵や
整備兵からも愛されたと言われるが、神風特攻作戦には断固反対したと
伝えられる。彼と接した予科練生によれば、優しい人柄で決して
乱暴はせず、それほどエライ人といった印象は受けなかったという。

また、当時の海軍軍人としては珍しく長髪のままで勤務しており、
自らを剣豪に見立てて救命胴衣の背中に「零戦虎徹」と大書していたと言われる。

よく言われることですが、日本の敗因の大きな要因の一つは、
このような優秀な人材を十二分に生かしきれていなかったことでしょう。
個々で見れば優秀な軍人は星の数ほど居ましたが、
それが上層部に居ない。上層部に就けない。
そういう組織の固陋化の始まりが、司馬遼太郎の言うとおり、
たどれば日露戦争に着くわけで、日露戦争から太平洋戦争に至るまでの
一連の経過は、現代にも十二分に生かしうる教訓になりそうです。