旅への渇望が生み出した発作とその結果について

困った。空想が止まらない。授業中の。
何も、かわいい女の子とイチャイチャとか、
そんな空想をしているわけではなく、単純に旅をしたい、と。
自分は、どうやら旅をすることで生気をとりもどす、というか、
旅の楽しさを去年の夏の大旅行で、知ってしまったというか、
とにかく旅がしたくて仕様が無い。授業中、退屈なときなど、
過去に訪れたあの場所は、今この瞬間も、
あんな風景で、今日は平日だから人通りもまばらで、
この季節だから、気温もあんな感じだろう、などと思いを寄せたり、
受験が終わって暇になったら、卒業して暇になったら、
あっちに電車で行きたい、こっちには自分の運転する車で行きたい、
などと空想を広げたりする。


自分が梶井基次郎の「檸檬」になにか特別な共感を覚える理由に、作中の

時どき私はそんな路を歩きながら、ふと、そこが京都ではなくて
京都から何百里も離れた仙台とか長崎とか――そのような市へ
今自分が来ているのだ――という錯覚を起こそうと努める。
私は、できることなら京都から逃げ出して誰一人知らないような
市へ行ってしまいたかった。第一に安静。がらんとした旅館の一室。
清浄な蒲団。匂いのいい蚊帳と糊のよくきいた浴衣。
そこで一月ほど何も思わず横になりたい。希わくはここがいつの間にか
その市になっているのだったら。――錯覚がようやく
成功しはじめると私はそれからそれへ想像の絵具を塗りつけてゆく。
なんのことはない、私の錯覚と壊れかかった街との二重写しである。
そして私はその中に現実の私自身を見失うのを楽しんだ。

という描写が、自分の旅への空想とあまりに
ドンピシャリだったがため、という点も大きな理由を占めているように思う。
檸檬」の中でも、特にこの描写はなんとも言えずに、
胸にじーん、とくるように思う。


だいたい、学校から帰る電車の中で、
「このままこの電車で博多駅まで行って、新幹線に乗って
大阪、いや東京にでも行きたい」などと思ったりすることも
ざらにある、ということがおかしいではないか。一種の精神障害かもしれない。
この場合、もう2駅先まで行くと福岡空港で、
隙あらば海外まで行けるのだが、飛行機に乗ろうとは思わない。
まず、海外となるとパスポートが要る。その時点で、
普通の学校帰りの自分には選べない選択肢になる。
単なる空想のくせに、一丁前にリアリティにはこだわるのだ。
所持金の有無は無視するくせに、パスポートの有無にはこだわるのだ。
翻って見ると、珍妙な話だとも思う。
それに飛行機は面倒である。離陸の何十分前には
居なければいけないだとか、チケットの引き換えがどうだとか、
機内持ち込み禁止がどうだとか、面倒なことが多すぎるのである。
その点、列車はいい。切符を買えば、あとはそれに応じた
列車に乗るだけである。なんと気楽なことだろう。


閑話休題。今日も空想を広げっぱなしであった。
だいたい、手にして読んだ本がいけなかった。
先日買った内田百間の「第一阿房列車」が露骨に
旅物語で、自分の旅への渇望をあおるに十分な内容
(だいたい、目的も無いのに道楽で東京−大阪間を往復、
という心意気がよいではないか)であったがために、
逃げるようにして手にした「司馬遼太郎が考えたこと 8」がまた、
のっけから、「薩摩坊津まで」と題した、司馬遼太郎
薩摩を旅した短編旅行記であるし、間をおかずして、
今度は「友人の旅の話」ときた。オムニバス形式の
エッセイ集のはずが、自分になんの恨みがあって、こうまでも
旅関連の話題を押し付けてくるのか。

また、内田百間も、司馬遼太郎も、その文章がいい。
旅行記というものは、読者に、旅をさせたい!と思わせて
ナンボである、と信じているゆえに、改めて
内田百間司馬遼太郎も、紀行文書きとしても一流の作家である、と
思わさせられるに至ったのである。


が、それはいい。
ともかくも、今の自分には、圧倒的に生気が足りなく、
生気を取り戻すためには、何か非日常的な体験を体にさせてやるほか無く、
それには旅がもっとも手っ取り早いと知ってしまっている。
旅への渇望が生み出した発作といっていいかもしれない。
なにも、明日から早速、とか週末にも、などという性質の発作ではない。
とりあえず、手の届く目標を据えてやれば、この発作は落ち着く。
今からだと、やはり夏がよかろう。
旅はひとり、せいぜい気の知れた友を1〜2人置くくらいでよい。
家族旅行では、この発作は満足に満たされない。
家族でつるむことに恥じらいを覚える中二病か、といえば、
そればかりでもない。むしろ、(そういう要素もあるとはいえ)
主な理由は別にある。ひとりで旅する、もしくは気の知れた仲間と旅する、
という行為を楽しみたいのである。ひとりで旅をすると、
大げさに言えば、旅の間中、自分と向き合うことになる。
実際、そんな大それたことでもない、とも思うのだが、
突き詰めていえば、ひとりで自分と向き合いたいがための
ひとり旅への願望なのかもしれない。気の知れた仲間との旅の楽しさは
言うに及ばず。修学旅行の楽しさと似ている、といえば分かりやすいか。


夏、ひとりで(仲間が要れば、なおいいが)、旅に出る。
できれば日帰りは避けたい。
この渇望を満たすには泊まりである方が、断然望ましい。
何より遠くへ行きたい。九州は出ねばなるまい。
かくして、(授業中に)自分は決めたのである。この夏、大阪へ行く。