おバカさん

Wikipediaってホント何でも載ってますね。
東條英機

官僚としてはかなり有能であったという評価はあるが、
東條と犬猿の仲で後に予備役に左遷させられた石原莞爾は、
関東軍在勤当時、上官であった彼を「東條一等兵」と
呼んで憚らず、嘲笑することしばしばであったという。
また戦後、東京裁判の検事団から取調べを受けた際、
関東軍時代、あなたと東條には意見の対立があったようだが」と
訊ねられると、石原は「自分にはいささかの意見がある。
しかし、東條には意見が無い。意見の無い者と対立の
しようがないではないか
」と答えたという。


東條に対する悪評価に拍車をかけた一面としては、
その官僚的な硬直した発想、視野のせまさ、権威主義
みずからの職掌をおかされることへの過剰反応、
内容よりも手続きや形式、見栄えを重んじるやり口、
みずからの地位を利用した敵対者への小姑のような嫌がらせ、
憲兵を多用した警察国家的な政治手法、などに起因するものが多い。
「器の小さな男」の狡猾な手段に対する嫌悪感、という面が
強いと言えるだろう。


渡部昇一によれば、政治家としての評価は低い東條も
軍事官僚としては抜群であったという。
強姦、略奪などの軍規、風紀に厳しく違反した
兵士には容赦なく軍法会議にかけたという。
戦場の司令官としてもチャハル・スイエン方面に
おける東條兵団の成功はめざましいもので彼が政治に
引き込まれなかったら、名将として名を残しただろうという意見もある。


1944年に退陣する際には秘書の赤松貞雄が続投の
可能性を模索したのに対し東條は即刻、そのような
姑息な行動をやめるように命じたという説もある。

日本国(大日本帝国含む)内閣史上、もっとも悪名高い総理大臣といえば、
多くの人がこの人の名前をあげるであろう、東条英機
戦犯のシンボルといっても過言ではないかも。
人格、実績、そしてそのインパクトのあるいでたちや印象的な丸黒ふちメガネなど、
悪者としての才能ともいうべきものを持ち合わせていました。
もちろん、首相にはなりえない、文句なしの「首相不適格者」ではありましたが、
それでもこんな一面もありましたよ、と。
東条英機、意外な一面。まぁ、あまりにもヘタレすぎたために「意外な一面」が
かえって際立ってしまった、という感は否めませんが。



世論操作という、あまりにも不純すぎる動機とはいえ、
何気にいい仕事をしていたりも。

現在ではごく普通になっている衆議院本会議での首相や閣僚の演説の、
映像での院内撮影を初めて許可したのは東條が最初である。
1941年12月23日に封切られた日本ニュース第81号
「鉄石一丸の戦時議会」がそれで、東條はヒトラー
やり方をまねて
自身のやり方にも取り入れたとされる。