山県有朋について、いろいろ。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E6%9C%89%E6%9C%8B
ウィキペディア見て、まず写真が
江川達也の「日露戦争物語」の山県とそっくりすぎて爆笑。
坂の上の雲など司馬遼太郎には、なにかと悪者扱いされていますが、
ウィキペディアには

現在、東京中心部の道路は狭いといわれているが、明治期の基準では
むしろ異常なほど広い道路だった。将来の発展を考え、周辺の反対を
押し切って広い道路を作ったのは山県である。

とあってびっくり。なにも悪いことばかりしていたわけではなさそうです。
考えあってのことか?気分屋山県のことだ。と言われれば
返す言葉は無いですが。(汗
まぁ、翻って言えば「中途半端に広いからこそ現在でも
なんとか使えて、その結果整備が進まない」という言い方も出来ますが、
うがった言い方でしょう。


でも、

山県の人気は生前から非常に低く、その死に際しては、維新の元勲として
国葬が行われたが、参列したのは、陸軍や警察の関係者がほとんどで、
一般の参列はあまりなかった。これは、ほぼ時を同じくして没した
大隈重信の葬儀が諸事情により、同様に首相経験者であり維新の
元勲でもあったのに、国葬にならなかったにも拘らず、各界の
著名人や一般参列者によってごった返すほどだったのに比べてもなんとも
寂しいものであった。また、当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)
は山県の死を「死もまた、社会奉仕」と、酷評した。また、別の新聞では、
「民抜きの国葬」と、伝えた。
(明治以降でここまで国民から嫌われたのは山県と渡邉恒雄だけといわれている。)

の一言には笑わせてもらいましたね。
言われてみればそう。ナベツネは現代の山県か。なるほど。


ウィキペディアは、まだまだ僕らの知的探究心をくすぐってくれそうです。